僻地フェチ。(祖父の思い出)

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あちこちのブログみてて思い出したこと。

ずっと前に亡くなった母方の祖父。

......僻地医療をやってました。


軍医として戦地にいる間に博多の家は空襲で焼けてしまい、帰ってきた祖父は長崎の離島で開業しました。

私は僻地で何でも屋として開業してる祖父しか知らなかったのですが、なんと実は祖父は眼科医だったらしいのです。(笑

それが軍医として従軍してる間にワッショイ好きになったのか僻地医療。

博多の呉服屋のお嬢だった祖母には離島の暮らしはつらかったようです。



祖母はのちに脳出血を起こし、島ではどうしようもなかったので叔父夫婦のもとで暮らすようになり、祖父は一人で残りました。

やがて叔父が開業する時に、島の診療所を売って叔父の開業資金にあて、祖父も叔父のもとへ移ってきました。



が、しか~し、叔父の病院で外来をやってる祖父に私の母がキレた。

天上天下唯我独尊おばさんであった母は祖母の介護を叔父夫婦に押し付けてきた祖父を許せなかった。

さらに祖母の脳出血も祖父が離島で開業して祖母に苦労させたためだと責めた。

そしてついに自分が同居してるわけでもないのに祖父を追い出した!!(スゲ~!!



その後,祖父は船医になりました。

僻地フェチというより海が好きだったんでしょうね~。



船から降りたら今度は北海道の離島。

これは九州人の祖父には無理でした。(笑

身体を壊して九州に呼び戻されました。(恐るべし!北海道の自然!!



祖父の最後の勤務先は海のそばの老人病院。

もと料亭だった風情の有る家でおしゃべりなインコと暮らしていました。(口調から考えて言葉を教えたのは祖父では無く,ハウスキーパーさんだったと思われます。

でもどっちが患者さんか判らないような年齢で,病院を抜け出して松林で頸をくくった患者さんの検死なんかしてるうちに祖父は元気を失っていきました。



不定愁訴が増えてたぶん老人性のうつ病もあったんじゃ無いかと思います。

そして検査を受けた病院で看護師さんから「おじいちゃん」と呼ばれてショックを受けたようです。(昔の田舎の病院じゃ普通のことだったんですが。

母は爺さんなんだからおじいちゃんって呼ばれてなんで怒るのよとか言ってましたが。



看護師さんに先生と呼ばれて何十年。



祖父は医師という職業を選んだのでは無く,医師という生き方を選んだ世代でした。

家族を見捨てたのか見捨てられたのかはびみょ~ですが、医師であるということが祖父のアイデンティティーを支えていたようです。

それを失った瞬間。



その後は仕事を辞めて、でも祖母はあんな爺さんの顔も見たく無いって言ってたのでしかたなく私の実家の近くに移りました。

父が往診し母や叔父夫婦が様子をうかがいにいくのに便利な場所。

でも海のないところ。



そしてある日、食欲が無くて元気がでないというので父が往診し、点滴でもしようか~?と言ってボトルを吊るして振り返ると、はい点滴してねと腕を差し出したまま心肺停止していたそうです。

蘇生させようとしても戻って来る気は無かったようで、あっさりしたものだったようです。



お葬式は本人の遺言により古びたお寺で行われたそうです。

母はすっごい町はずれにありヤブ蚊だらけ、しかもこの暑いのに冷房も無く大変だったとぼやいてました。(いわく最後まで嫌がらせみたいなことをry




そして私はそのとき研修医1年目にしてストレス性潰瘍に倒れていてお葬式には帰らなかったのでした。