発達障害における療育ということ。その2
前回と同じく療育についてです。
私は療育は大事だと思ってますし、指導してくれる専門家も増えて欲しいと思ってます。
では療育とは具体的にはどういうものでしょう?
専門家じゃないとできないようなこと?
私は実は発達障害児の療育と言うのは、ものすごく丁寧な子育てってことじゃないかと思ってます。
普通の子は意図的にいろんなことを教えなくても周囲の人を見ながらびっくりするほど自力で発達していきます。
でも多くの発達障害児はあまり周りが見えていませんし、人に注目しない傾向があります。
それで意図的に注意を引いて丁寧に繰り返し繰り返し学ぶ機会を用意するのです。
たとえば大きさの概念を教えるとか目標を立てたら、大小の積み木やおもちゃの車やいろんな大小のものを用意して、遊ばせながら「大きい積み木の上にのせて。」とか繰り返して「大きい」という概念を教えるのです。
普通の発達をしていればわざわざ教えなくても身についているであろう概念を根気強く教えるのです。
この何かを学ぶ機会を意図的に作って根気強く繰り返し教えることはそれほど困難じゃなさそうに思う人もいるかもしれませんが、教えることの量を考えるとめまいがします。
SST(ソーシャルスキルトレーニング)などもやっても現実にはいろんなパターンがあるから無駄などと思う人もいるようですが、いろんなパターンに臨機応変に対応できないからこそSSTが必要になるのです。
また、ABAでは教えたいことをスモールステップに分解します。
普通だったら意識もしないような一連の動作でも細かくわけて教えていきます。
そうすることでどこで躓いてるか判りますし、そこを重点的に鍛えることができます。
発達障害の子は多くは体の使い方も下手です。
たとえば縄跳びを例にとると、ジャンプすることと縄を回すことを同時に行わないといけません。
まずはジャンプと言う動作。
その子はジャンプできる?できなきゃそこからです。
次はリズミカルに一定のスピードでジャンプできる?
できたら足元に棒など置いて、飛び越えられる?
できたらその棒をリズミカルに足元にもって行って連続で飛ぶ練習。
一定のペースで飛び越えるという動作ができるようになったら。はじめて縄の登場です。
片方持たせて、もう一方は介助者が持って回す補助します。
回された縄を飛べるようになった?
じゃあ両方持って、縄には棒などつけて介助者が回す補助。
ここで持ち手が長いほうが良かったり、縄を重いものにしたり道具にも工夫が必要だったり。
そしてついに補助なしで飛べる日が。
縄跳びに必要なスキルをこれでもかとスモールステップにして、でき無さそうな部分は介助して。
もちろん途中の工程すっとばしてすぐできる子もいます。
そこはこどもにあわせるのです。
それこそ苦手な子には縄跳びひとつで年単位の練習が必要だったり。
そんな風に。
何が出来て何ができないのか。
アセスメントして、できないことはスモールステップに分解して。
苦手な部分は繰り返し繰り返し。
しかもそれで嫌にならないように。
ここがまた難関なんだと思います。
嫌にさせないためには成功体験をさせなきゃいけません。
たとえばうまくジャンプ出来たらよくできたねと褒めて達成感を持たせて気持ちよく練習を終わらせなきゃいけません。
甘いとかぬるいと思う人もいると思いますが、なんでできないんだとガンガン叱って鍛えるより絶対いいと思っています。
楽しいほうが伸びるんです。
楽しいと思えるまでに時間がかかるかもしれませんし、最初は大変だと思うかもしれませんけれど。
そしてまた大切なこと。
縄跳びができないと学校で恥かくかもしれませんが、大人になったらできなくてもかまわないですよね?
頑張る意味は?
これはなんでもそうだと思うんですが、練習する過程自体が大事だと思うのです。
やって見せて真似させたり、指示したり、やれたことをほめたりのひとつひとつがコミュニケーションの訓練になっていると思います。
相手に注目すること、指示を聞いて従うこと、はじめは褒められるのがうれしいけどそれがやがて内なる達成感になっていくこと。
ただこの要領ですべてのこと、身辺自立から学習、対人スキルなどなどを一個ずつ教えていくとなると教えるほうが大変すぎます。
しかも子供の時間には限りがあります。
やっぱりそういう指導の経験者から効率よくやる方法を伝授して欲しくなりますよね?
今は前のエントリーで紹介した藤坂さんと井上先生の「家庭で無理なく楽しくできるコミュニケーション課題30」とか大久保先生の「3ステップで行動問題を解決するハンドブック」とかふくめ、家庭での療育を助ける本も増えてます。
「me book」くらいしかないのに翻訳されてない~!!とか「teaching language to children with autism or other developmental disabilities」もない~とか言ってた時代からすると、よくはなってると思います。
でも足りない...というか、たぶん毎日が大変すぎてたどりつけない。
だから支援を!
変なものにはまる人を無くすには良質の支援が必要。
すがる藁の代わりに浮き輪!!....と思うのでした。
発達障害における療育ということ。その1
なんだかよく判らないけど療育と言う言葉を使ってきました。
ググったら「心身に障害をもつ児童に対して、社会人として自立できるように医療と教育をバランスを保ちながら並行してすすめること。東京大学名誉教授の高木憲次(1888―1963)によって提唱された概念で、「治療をしながら教育する」ことがたいせつであるという意味合いが込められている。すなわち「療」とは医療あるいは治療を意味し、「育」とは養育や保育もしくは教育を意味する。」と出てきました。
この言葉を作った人がはっきりしてるんですね。知らなかった。
一般に療育はそれが必要であると診断されることから始まるので、入り口には医療は存在しますが、医療機関と療育機関が併設されている施設は少ないと思われますので、診断後は医療は投薬が必要なケースを除き、定期的な知能テストや脳波検査、あとは年金などのための診断書の作成くらいしか関わらないことが多いかも。
また、今のところいくつか仮説は有りますが、発達障害の原因も治療法もまだ見つかってないので、医療のほうでは治る病気ではなく「障害」であり、療育が必要と言われることが多いかと想像します。
そのことで医療不信になってるっぽい人を見かけます。
「治らないと言われた、ひどい!」「医者なら治せよ!」みたいな。
.....根本的な治療法はまだ無いんです。
でもそれでおしまいではなく、そこから本題の療育が始まります。
療育自体は家庭と療育機関が中心になるかと思います。
療育機関にはばらつきが大きいようです。
昔はプレイセラピーと称しただ遊んでるだけみたいなのも有りました。
(それでも何もしないよりはずっといいんでしょうが...)
今はわりと応用行動分析的なやり方を取り入れてるとこが増えているように思います。
狭い観測範囲ですが。
で、療育機関の質のばらつきや、よさそうなとこには待機が生じること、民間のは費用が結構かかることなどで不満も有るかと思います。
それで療育機関なんてダメだ!!みたいになってる人もいるような。
家庭でやればいい。
それは出来るならそれでいいと思います。
昔、講演で拝聴した河島淳子先生のお話はすごかった!
自閉症と言うものがほとんど知られていなかった時代に、末っ子の自閉症のお子さんをどう育てるかということをご自身で考えて実践なさったのです。
もともと小児科医でいらしたことや、その他の教養にも恵まれたかたで、講演でうかがった子育ては応用行動分析を取り入れた療育そのもの。
よくもその時代にお一人でと思いましたが、ご本人も自分にはそれができる能力と環境があったからで誰にでもできるわけではないとお考えになられて、子育て後もトモニ療育センターをお作りになられて他の人たちをサポートなさった。
う~~~ん、尊敬します!!
あと、つみきの会の藤坂さん。
お嬢さんのためにご自分で応用行動分析による療育の中でもロバース法という早期介入療法を実践なさり、その最中に一緒に実践する仲間を求めて会を立ち上げられた。
しかも素人ばかりで行うことを危惧する声に対し、大学にはいりなおして臨床心理学と応用行動分析を学ばれた。
すごいです...尊敬します...
が、普通の親はそうはいきません。
そもそも普通の人は子供が診断されて、それ何なの?状態。
そこから障害について学ぼうにも、普通の子以上に手のかかる障害児に振り回されて、無事に育てるだけで精一杯。
そしてちいさい兄弟児がいたりしたらもうてんてこまいでしょう。
で、私としては過去何度も書いてますが、公的な療育を充実させて欲しいんです。
そして療育の大事な点は直接の子供の指導以上に、親教育だと思っています。
普通の子と違うらしい...どう対応していいのか判らない...と途方にくれてる親に、いろんな子を指導してきた療育者がやり方を伝授する、ここが肝心。
なんと言っても幼児期は一緒にいる時間が長いのは親でしょうから。
よい療育に出会えなかった、いっぱいで断られた、あまり質のよくない療育で無駄だったなどなどから、療育なんて役に立たない!!という怨念の声が聞かれます。
「医者は治せないと言った、ひどいですね!!療育機関ははいれなかった、はいれたとこはひどかった!!そうですか、それなら医療や療育と決別しましょう!!
かわりにうちのやり方をやってみましょう!簡単に治りますよ!!」
.......こんなの信じないでくださいと言いたい...
でもすがる藁を排除するには浮き輪が必要...
日本中どこに住んでいても公費で良質の療育が受けられるようになって欲しい。
そしてそれは少子化対策でもあるかも。
どんな子供が生まれても大丈夫ですよ、安心して産みましょうねと言える社会を希望します。
夢物語。
最近の私のtwitterでコメ付きRTしたこの話についての夢物語です。
https://twitter.com/numachinomajo/status/1171947991533441025
出来ないことがあっても、それをロボットに補ってもらえばいいという考えは素敵です。
ただ介護されるんじゃなくて出来ることがあればそれを生かす、そのためにロボットに手伝ってもらう。なんて夢があるんでしょう。
「心が自由であること」が大事になり、「心が資本」の時代が来る
これはすばらしい。
じゃあ「心」に不自由を抱えてた場合は?
で、考えたのがADHDの人をサポートしてくれるタイプの携帯型ロボット。
これは直ぐ出来そうですよね。
そこからさらに考えたのが自閉症や知的障害の人用の移動支援オリヒメ。
オペレーターは動けないけど精神はしっかりした人。
体は動くけど知的に不自由を抱えた人と、動けないけど精神はしっかりした人の二人三脚。
以前に聞いた話です。
決まった場所へは交通機関を利用してひとりで通える自閉症の子がいて、都電を使ってたけどあいにくの強風で路面電車が不通になってしまったと。
アナウンスは有ったようですが、その子には理解できません。
個別指示じゃないと自分に関係のあることだと認識できないのです。
幸いなことに外出したお母さまが通りかかって、待合のベンチにポツンと座ってたその子をみつけたそうです。
もうひとりの例は電車通学ができるようになったけど、同じように突然の変更には対応できない子。
3年間お母さまが隣の車両からこっそり見守って、学校のある駅で降りて改札出るまで見届けてたそうです。
もしそこに携帯型の移動支援オリヒメがあったら?
いつもの電車は来ないから帰りましょうとか、駅員さんを見つけて声をかけなさいとかの指示が携帯型オリヒメ経由で出せたら?
人がつきそう移動支援だと支援場所への往復などの時間も必要ですが、携帯オリヒメだったら居ながらにしてつきそえます。
動けない人でもヘルパーのお仕事が可能です。
もちろん道路に飛び出すような子の支援は無理ですが。
これってオリヒメのカメラ、マイク、スピーカー部分だけでいいので作れそう。
それで相性が良ければ、余暇も楽しめたりしないかなあ?
お互いの行きたいとこ、見たいとこを交互に選んで旅行したり。
技術的なこと以外の部分に困難が多そうなアイデアですが。
夢のお話。
さらにしつこく続きます。
前回、前々回からまたまた発達障害のおはなしが続きます。
自閉症関係にはあやしげな療法がやたらに存在します。
それは今のところ根本的な治療法がないからだと思われます。
あやしげな代替医療であれば、そんな効果あるものなら標準医療になってるはず、秘密の方法なんてありませんから普通の病院に行きましょうと言えます。
ところが発達障害だと、こないだtwitterで見かけたところによると、発達障害をはじめとする育てにくさを感じる親への早期支援体制がある市区町村の割合 市区町村 64.6% だそうです。
支援体制があるところも足りているかどうかは判りません。
また質についてもばらつきがあると思われます。
大都市であれば民間の療育機関もそれなり増えていますが、地方はあまりないんじゃないかと想像します。
さて、前回書いた出版社では体操などを進めてるようですか、体を動かすやり方は何十年も前から行われています。
知的障害・発達障害の理解と支援⑦運動発達とその障害、および指導法①
と言うか幼児期とか言葉のない状態では体を使うしかないというか...
これは他の民間療育でも同様で、運動や作業が学習の前段階として、さらに学習や身辺自立訓練と並行して行われているところが多いと思います。
わりと有名な部類のコロロ発達療育センターでも学習のほかに体操は有ります。
ところで、脱線しますが私はコロロの理論は「トンデモ」だと思っています。
が、実践には長い経験に裏付けがあり、個人的には有用な方法だと思っています。
なにより「コロロ理論」を信奉してないからと言ってどこぞの出版社みたいに攻撃してきませんから。
と、本筋に戻ると私は療育というのは害になるもの以外であれば、何もやらないよりはいいと思っています。
おまじない程度のものであれ、何かを試しているときは親は効果をみようと子供に注目するからです。
問題行動への対処で、問題行動をまず記録してみると、それだけで問題行動がおさまることがよくあります。
これも記録しようと子供に注目することが問題行動を未然に防ぐことになるのだと思います。
ただし、何もしないよりはいいと言っても、しっかりやろうと思っている場合にはできるだけ効率の良い方法を選ぶべきです。
親のエネルギーも子供の時間も有限ですから。
たとえば運動療法のもっとも極端な例としてはドーマン法が有ります。
まったく効果が無いとは思っていませんが、努力に対して割の合わない方法だと思っています。
大半の時間を家で過ごす幼児期の療育の中心は家庭になります。
ただし、親はしろうとです。
予想していなかったのに突然、「障害児の親」になる人がほとんどでしょう。
手のかかる子の育児、さらに兄弟児もいたりして障害について学ぶゆとりもない場合が多いのではないかと。
だから「トンデモ」にはまってしまうのだと思います。
私が望むのはせっかく乳幼児健診があるのだから、そこで疑われた子にはただちに早期療育を、親には障害についての知識を教育して欲しいということです。
一瞬も目を離せないような子を療育してもらってる時間に並行して親教育。
そして療育で学んだことを家でも同じにやれるようにするのです。
ABAで言う般化ですね。
少子化にともない塾なども生徒が減っているのか、障害児教育に乗り出すところも増えているようです。
でも民間の療育はゆとりのある家庭でないと金銭的負担が大きいです。
公費による質の高い療育を徹底して欲しい。
毎回の結論でした。
発達障害は治るか?の話の続き。
しつこく、発達障害は治るかについてです。
まれには治ったように見えることを「治る可能性がある。」と言うか。
まあもとが軽度であり、よく伸びて診断基準を満たさなくなったことを「治る」というかどうかは実は重要ではないと思っています。
もともと診断されてないけどなんらかの困難を抱えているグレイゾーンの子もいて、診断名が必要かどうかは診断があることで対処が判るとか必要な支援に届くとかであって本人は診断名はあってもなくても本質に変わりはないでしょうし。
にもかかわらず「治る」「治らない」議論(?)を見過ごせないのは、「治る」という言葉で悪質なことをしている人がいるからです。
あたかも自分のところの本を読めば「治る」と思わせるような宣伝をしながら、それはないという人を攻撃するのです。
コンディショニングで、春ウコンで、エビオスで、焼酎風呂で、恐怖麻痺反射(なんですかそれ?)を克服すれば、治っていく、さらに最近はついでに弱視やアレルギーまで治ると言い出しました。
そういうのはいくらでもあります。
「これで君も5㎝背が伸びる。」とか「癌はこれで治る。」とか。
いちいち反応してたらキリがないくらい。
でも問題は、それはないだろうと言う人を攻撃することです。
はじめはウコンだったと思います。
春ウコンが効くと聞いて幼児さんのお母さんが飲ませてみようと言ってるのに驚いた言語聴覚士さんが、ウコンの副作用について注意喚起なさったのです。
一般に漢方は効きが穏やかで副作用もないと考えてる人が多いですが、漢方は有効成分のみを抽出するのではなく材料がそのまま使われているだけで、作用と同時に副作用もあるのです。
だから 注意喚起はむしろ親切だと思うのですが、これがなぜか怒りに火をつけたようなのです。
言語聴覚士さんに対して「花風社クラスタの総力を挙げて、必ず本名を特定して、潰す」「メンタル弱そうだから潰しておけ」「罰金以上の刑にして、免許剥奪になるリスクもある」「〇〇も本名を掴んで晒したら、だんまりになった。だから絶対にやる」etc
さらにこれが本名かもと匿名の読者から送られた情報をもとに、それらしいと思った相手を狙って病院にクレーム入れたりお役所に謎の「公益通報」(公益通報ってそういうもの????)
名誉棄損で裁判をするとまで。
これは全くの謎理論で、相手を偏差値低い学校出身、田舎者と訳の分からない誹謗中傷をしながら、中傷してる人が相手を訴える???
これはウコンで治るかどうかとかはどっかにふっとぶくらいの訳のわからなさ。
名誉棄損の方向性が逆としか思えない...
にもかかわらず支持者がついていってるのが謎です。
完全なダブルスタンダードで、「治る」も使い分け、支持者には「成長すること」を「治る」と言い、ちょっとの成長でも治ってすごいですねと持ち上げ、そんなことじゃ治らないと批判する人には治癒の意味で使い、福祉に頼りたいから治したくないんでしょうと言う。
批判者に対する決めセリフは「安心したまえ。君たちの子どもは治らない。」
Twitterではこういうことをおっしゃってます。
「医療にとっては病者。 福祉にとってはカテゴリー化された顧客→なるべく多く介入ししかも治さないとそれだけ儲かる。 親にとってはかけがえのない我が子。たった一度の人生を送るひとりの人間。 さてどの見方が子どもに最も益するでしょう? 家庭で治すのが一番ですね。」
医療や福祉への不信感をあおり、それらから距離を取れと。
これは代替医療などでよく見かけます。
医者は金もうけのために検査漬け、薬づけににしますよ、うちなら天然素材の○○で治せます...みたいな。
こういうのはまず何があっても責任は取ってくれません。
医療者や支援者は言葉に責任があるので「治る」とは言わないでしょう。
そこに不満を持った人が「治る」と言ってくれる人を信じるのでしょう。
そしてそれは間違ってると言う人たちに「治すことに反対している」という訳の分からないレッテルを貼って、頑張って治してるあなたたちに嫉妬して攻撃してると言う人を信じる...
でもその人信じていいの?って思いますけどね....
発達障害の治る、治らない議論ふたたび。
ずっと放置しててそのまま消えても構わないと思ってたブログを復活させたのは、最近140文字では書ききれないことができたためです。
あと以前にブログで書いた内容でちょっと考えが変わったこと。
気になってるのはこれです。
https://numachi.hatenablog.com/entry/2010/04/27/220505
この時はわりと能天気に小さい頃に障害と診断されてても、その後の伸びがよくて診断基準をはずれるほどならそれは治ったって言ってもいいんじゃないかって思ってました。
基本的には今もそう思っています。
ただし、今回twitterでいろんな人の意見を見て判ったんですが、「治った」に近いように見えながらすごくしんどい思いをしてる人がいるということ。
普通の人がほとんど無意識に行ってることを「考えて」普通の人がやるようにふるまうのは、すごく疲れるだろうというのは何となく想像がつきます。
みんながぶらぶら歩いてるなかで、ひとりだけ見えない平均台の上を歩いてるようなものかなと思います。
またネットで見かけた話で、外では普通にふるまってるのに家族といるときはバリバリに発達障害の特性がでてるのとか。
これは「治った」にははいらないと思います。
そして、こういうしんどさも早期に介入したほうが少なくなると想像してます。
で、毎回、何が言いたいのかと言うと、乳幼児健診がせっかく整ってるんだから、そこでひっかけたらすみやかに公費で療育という体制を希望と言ういつもの結論でした。
おしまい。